廣嶋雑記

広島のあれこれ

広島と福岡のバスセンター

広島のバスセンターは、広島駅から2km離れた紙屋町交差点にあります。
そごう広島店の本館と、アクア広島センター街というショッピングモールの3階に跨っています。
数年前にバス発着場のフロアにあった売店が改装されて、売店の他に新しくフードコートができました。

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バスセンターから路線バスに乗るのは、たまにしか利用しない地元民にはハードルが高く、高速バスのように経路や目的地がはっきり分かっていないと、とんでもない場所に行ってしまいそうで怖いのです。
同じ路線のはずが、バスセンターではなく、向かいのエディオン前のバス停経由の便もあって、謎が多いのです。
バスセンターの窓口で確認すると申し訳なさそうに、ここではないんです、エディオン前のバス停なんです、と言われるので、バス会社自体、分かりにくい、という自覚があるようです。
そのバス停はバスセンターの3階から1階に降りて、さらに横断歩道を渡った所なので、お年寄りには難儀なことです。


アクア広島センター街というショッピングモールは、そごうの本館と新館に挟まれていて、本館と同じフロアは自由に行き来できます。
新館とは1,3,6階の連絡通路で繋がり、さらに、そごう新館はリーガロイヤルホテル広島と1階の通路で繋がっています。
そごう新館とリーガロイヤルホテルは後から建てられたので、増築を重ねた建物のようにサンドイッチ状態になったようです。


以前、福岡のバスセンターに行った時、広島のバスセンターと同じように建物の3階が発着場になっていて、デジャヴと勘違いしそうになりました。
しかし博多や天神は、広島市中心部の5倍くらいはありそうな大きな街でした。


広々とした街で道路が広く、私鉄があり、空港も近い、と交通至便です。
九州新幹線が出来るまで、飛行機か高速道路でしか移動できない、とか、ここ数十年で一気に街が大きくなったと聞きましたが、食事は美味しいし、ショッピングには不自由しない、とても住みやすそうな街です。

 

対して広島空港はリムジンバスで50分もかかるのでロザンの菅さんに、ちょっとした小旅行を楽しめる、と言われてしまいました…。

以前は広島市西区観音新町にあったのですが、三原市の現在地に移転しました。

古い空港まで広島駅から路線バスで40分程かかっていたので、新空港への移動時間とはさほど差がないとはいえ、リムジンバスの乗車賃の方が何倍も高いのが辛いところです。


以前、福岡へは太宰府の九州国立博物館の展覧会を観に行ったのですが、最初に建物を見た時、なんだかこじんまりとした博物館だな、と思いきや、なんとそれは単なる入口部分で、九州各県の銘菓を色々取り揃えた大きな売店でした。
本館はその先のトンネルを抜けた所にあり、広過ぎて観て回った後は、すっかり疲れました。 
しかし特別展の他、目玉所蔵品の油滴天目の茶碗と金印は、しっかり観ました。


国宝の窯変天目には及びませんが、油滴天目は金色の滴が散っているようで、やはり一見の価値はある茶碗でした。
かつて島根県松江の松平不昧公が所有していた期間があったそうです。
福岡県志賀島の畑で出土したとされ、卑弥呼の時代に遡る漢委奴國王の金印は複製展示でしたが、一度は見たかったので満足でした。
この金印、けっこう昔から偽造説が取り沙汰されていますが、果たして真偽の程はどうなのでしょうか。


近くのうぐいす茶屋で食事を済ませた後、焼き立ての梅ヶ枝餅を食べたら、皮が最中の皮のようにパリパリしていてとても美味しかったのが未だに忘れられません。
広島でも物産展で焼き立てを買えますが、皮があんなにパリパリしていません。


太宰府天満宮の飛梅も見ましたが、その時に遭遇した団体客の大群にはタジタジでした。
外見は日本人に見えても、飛び交う言葉は韓国語と中国語でした。
往々にして地元民が観光客に対して遠慮がちになってしまうのは、観光客の一度きりしか来れないかもしれないんだから見逃すものか‼︎という気迫に、地元民が気圧されてしまうためでしょうか。
自分も同じく観光客だったのですが、国内から来ていて移動距離が短かいという引け目があるせいか、気合い負けしてしまいました。


令和の元号名で一躍、脚光を浴びている太宰府天満宮ですが、ここで催された宴で詠まれた大伴旅人の歌が典拠ということなのですね。
天満宮は菅原道真を祀る神社なので、大伴旅人の時代から、およそ100年後に創建されたことになります。


菅原道真の死因は栄養失調による衰弱という、朝廷で右大臣にまで登りつめた経歴の人物としては凄まじいものでした。
藤原氏の圧力により収入を断たれ、衣食住全てに事欠いた生活でした。
寝具として用いていた数枚の粗末な衣の摩擦で静電気が発生し、栄養失調で体力が低下していたために致命的な心不全をきたしたという新説があるそうです。


しかし道真の死後、讒訴したとされる藤原時平を始めとする高官ばかりか皇太子や天皇まで次々と亡くなったのは、道真の祟りのためとされました。
当時の道真排斥派は相当、後ろめたかったのですね。
その鎮魂のため、流刑となっていた子弟が朝廷に復され、天満宮が京都の北野や太宰府の他、各地に創られ、現在では学問の神様として人気になっています。
そして新元号の選定にも、道真の子孫が連綿と携わってきているそうです。

 

菅原道真は今では学問の神様として有名ですが、若い頃から品行方正の堅物だったわけではなく、人並みに娯楽を嗜んでいたそうです。

幼い頃から学問に打ち込んでいた優等生という先入観があったので、ちょっと意外でした。


広島市東区にも道真が太宰府へ向かう途中、立ち寄ったとされる場所に尾長天満宮があります。
広島駅新幹線口から北に1km足らずの場所ですが山の中腹にあり、道真の時代、広島駅周辺はまだ海だったため、船で寄ったのだそうです。

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