廣嶋雑記

広島のあれこれ

三次もののけミュージアム

今年2019年4月三次市に、三次もののけミュージアムが開業しました。
湯本豪一という収集家の妖怪コレクションと、江戸時代に実在した稲生武太夫(いのう ぶだゆう)が実際に目撃したという妖怪を描いた稲生物怪録絵巻などが所蔵、展示されています。

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かに石という、地元に「動かさない方が良い石」として伝わる、いかにも物怪の伝承のある土地ならではの石が建物の脇にありました。

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その隣に、なぜか機関車もありました。

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このミュージアムのもののけダイニングではステーキ定食やローストビーフごはんが人気です。
もののけソフトは一つ目小僧をかたどっていて、濃厚なクリームが美味でした。

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これは、もののけではなく、たまたま太陽の位置が入道雲の裏だったため、放射状の影ができたものと思われます。

 

稲生武太夫は三次浅野藩士の子として生まれ、23歳頃まで三次で暮らした後、広島浅野藩に移りました。

広島市中心部を通る市電の電停で、広島駅から3駅目の稲荷町(いなりまち)に、武太夫が合祀されている稲生神社(いなりじんじゃ)があります。
電停を降りて横断歩道を左手に渡り、八丁堀方向へ進むと直ぐ右手にビルに挟まれて建っているのが稲生神社です。
同じ「いなり」と読む神社名の稲生と、町名の稲荷とで漢字が違う理由はよく分からないそうですが、もしかすると武太夫が合祀された時に元の稲荷神社の漢字が稲生に変わったのでしょうか。

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先日その稲生神社を通りかかると、鳥居の両脇に名入りの幟がはためいていました。
ふと見ると左側に、京極夏彦、荒俣宏、水木しげるの連名の幟が、右側には昨年2018年に亡くなったカープの鉄人衣笠祥雄の幟が‼︎
なぜ、このような有名人達の幟が、こんな人目につかない場所にあるのか‼︎と驚きました。

この神社には武太夫が合祀されているため、妖怪に詳しい3名の作家が連名で幟を奉納されているようです。
以前から稲生物怪録を評価していた、妖怪研究家でもある小説家の京極夏彦が今年2019年7月に「稲生物怪録」という文庫を出版しています。
京極夏彦と交流があった「ゲゲゲの鬼太郎」の作者の水木しげるや、「帝都物語」などの作者でもある妖怪評論家の荒俣宏の名前が連名で書かれた幟は珍しいのではないかと思います。
余談ですが京極夏彦の作品を何冊か読んだことがあります。

そのうち「どすこい」の中のN極改め月極夏彦の「すべてがデブになる」が、実は一番面白かったです。

この「どすこい」は単行本、新書版、文庫版でそれぞれタイトルに「仮」、や「安」などがついていました。

稲生物怪録絵巻も正式には「(仮称)稲生物怪録絵巻」なので、もしかしたら触発されたのでしょうか。
そしてカープの衣笠さんが幟を奉納されているのは、武太夫が妖怪との根比べに打ち勝ったことから、強運、勝運の御守護があるためと思われます。


この稲生神社は広島駅からも市の中心部の八丁堀や紙屋町からも少し離れているので、日中は人通りが少ない場所です。
ビルが建ち並んではいるものの、一般向けの店舗がほとんどなく、近辺に職場などがない限り広島県民にはあまり馴染みがありません。
神社といえばお祭りですが、この辺りで大きなお祭りは、中央通りと100m道路交差点近くの圓隆寺のとうかさんや、三越隣の胡子神社の胡子講(えびすこう)しか知られてないため、この稲生神社はその点でも馴染みのない広島県民が多いと思います。


稲生物怪録は武太夫がまだ平太郎と名乗っていた16才の頃、30日間にわたって自分の家に現れた様々な妖怪と対峙し、遂に妖怪たちの頭領である山本五郎左衛門(さんもとごろうざえもん)に打ち勝ったという経緯を、後に同僚の柏正甫が武太夫から聞き取って記録したものです。

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ことの発端は隣の家に住んでいた相撲取りの権八と比熊山でやった肝試しで、その2ヶ月後の7月1日から30日の間、平八郎宅に毎晩、妖怪が現れたといいます。
平八郎は、この妖怪たちを退治したわけではなく、妖怪が次々に現れても特に意に介さず過ごしていたということのようで、現代であれば大きなお化け屋敷に入って、途中で騒ぎ立てることもなく平然と出てきたというところでしょうか。
平八郎は毎晩入れ替わり立ち替わり現れる妖怪を見ても、平常心を保ったまま普段通りの生活を続けた、ということらしいです。
両親を早くに亡くしたため叔父が家を継いでいたのですが、この叔父も病のため実家に戻ってしまい、わずか16歳にして幼い弟と家来1人の心許ない三人暮らしの苦労で、少々のことでは動じなくなっていたのでしょうか。
そして、その経緯を稲生武太夫自身が記録した三次実録物語が今も子孫に伝えられているそうです。
下の写真は、稲生物怪録にゆかりがあるとされる小槌が毎年ご開帳される國前寺で、広島駅新幹線口からほど近い東区山根町にあります。

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このお寺の正面左手を少し登ったところが尾長天満宮になります。

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この地域は広島城の北東に当たるため鬼門封じの寺社が多く、7ヶ所の寺社を回る七福神巡りというコースがあり、事前に依頼すればガイドさんが案内してくれるそうです。


・稲生武太夫、三次藩に関する年譜
1632年 浅野長治、広島藩の支藩として三次藩を立藩
1683年 浅野長治三女阿久里、赤穂藩主浅野長矩と結婚
1701年 浅野長矩、松の廊下刃傷事件を起こす
1703年 赤穂浪士、吉良上野介邸討ち入り
1720年 5代三次藩主 浅野長寔夭折、廃藩
1735年 三次で稲生平太郎(後の武太夫)生誕
1749年 三次の稲生平太郎宅に物怪が現れる
1758年 稲生武太夫、広島藩に仕える
1803年 稲生武太夫没す
武太夫の墓所は広島市中区小町の本照寺にあり、子孫の方々もご健在だということです。


稲生武太夫は妖怪騒動の数年後、三次から広島浅野藩に移ったそうです。
三次浅野藩は藩主の夭折が続いて遂に廃藩となり、藩士たちは何十年も身の振り方が定まらず不安な時期にこの妖怪騒ぎが起きていたことになります。
また忠臣蔵の題材となった、大石内蔵介ら赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件の発端である赤穂藩主、浅野長矩が起こした松の廊下刃傷事件が三次藩廃藩の20年ほど前に起こっています。
三次浅野藩の初代長治の三女、阿久里姫が嫁いだのが、この浅野長矩で、阿久里姫は大石たち浪士の討ち入り前には資金を提供し、事件後は遺児たちの赦免に奔走したそうです。

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